突然ですが・・・、
音楽を享受するためには、基本的には音を「聴く」ことが求められます。
演奏する上でもまた、音を「聴く」ことは避けられないでしょう。
さらにいうと、演奏家は、鳴っている音をよく聴いているだけでは不十分です。
どうしてでしょうか・・・?
なぜなら、すでに鳴っている音というのは、もう過去のものだからです。
車を運転していて目の前に木があったら危険を予測してブレーキを踏むのと同じように、演奏家は、前もって音楽の先を聴いて、音をコントロールしていかなくてはなりません。
つまり、実際には鳴っていないものを、心の中でイメージして聴いていくことが大切です。
このことを、さまざまな音楽教育者たちは、内的聴感、内的聴覚、内的聴取力、などという言葉で表しています。
素晴らしい演奏家は、意識的あるいは無意識的に、この内的聴感を駆使しているのではないでしょうか?
ある作品を演奏する際には、見切り発車的に音を出すのではなく、一つ一つ、
「この部分はどんな音がふさわしいのかな?」
「その中で自分はどんな音を出したいのかな?」
と、イメージを膨らませなくてはなりません。
そのためにはもちろん、あらかじめたくさんの音色のパレットをもっている必要がありますが・・・。
ウィレムスによる内的聴感の言説
ウィレムスは、『音楽的な耳 第2巻(l'Oreille musicale TOME. II)』の中で次のように語っています。
できの悪い音楽家たちは、彼らが演奏するものをきかない(entendre)
並以下の音楽家たちは、彼らが演奏するものをきく(entendre)ことはできてもきいて(écouter)はいない
平均的な音楽家たちは、彼らが演奏したものをきく(entendre)
よい音楽家たちだけは、彼らがこれから演奏することになるものをきく(entendre)
実は、私がウィレムスと最初に出会ったのは、この言説がきっかけでした。
大学生の頃でしたが、ハッとしたことを今でもよく覚えています。
そして、ちょうど同じ頃、ありがたいことに素晴らしい生演奏を聴く機会が多くて、そんな時にはいつも、「音楽が今ここで生み出されているみたい!(即興的に音楽が生まれている感じ)」とか「まるで奏者と楽器が一体化しているみたい!(楽器が演奏者の身体の一部みたい)」などと感じていました。
そして、興奮とともに得られたこの実感こそ、まさに奏者が「これから演奏することになるもの」を予測的かつ連続的に聴きながら次々と音を紡ぎ出しているから生み出された産物なのではないか?と感じたのです。
ウィレムスは折に触れてこの内的聴感の重要性に触れており、どうしたら内的聴感を育成することができるのか?という教育的な事柄についても具体的に述べていますので、また今度ご紹介したいと思います。
ちなみに、私が上記の言説の中で「聴く」という動詞を全て平仮名表記にしたのには理由があります。
フランス語の日本語訳については、entendre=聞こえる、écouter=聴く、というように訳し分けられることが多く、どう考えても音を注意深く聴いているのは 'écouter' の方なのです。
私はずっとこのことが気になっていて、なぜ最後の「これから演奏することになるものをきく」の部分が 'écouter' ではなく 'entendre' なのだろう?まさかこんな大事なところが誤植?などとずっと頭を悩ませていました。
けれど、よく考えてみたら 'entendre' には英語の ‘understand’ と同じく「理解する、解釈する」という意味合いも含まれているのです。
さらに、ウィレムスの本の別の章を読んでいたら、ウィレムス自身は「聴く」ということに三つの段階を設けていて、それによると、
①感覚的な聴覚(ouïr)
②情動的な聴覚(écouter)
③知的な聴覚(entendre)
というふうに定義されていました。
①の「感覚的な聴覚」は、健康な人間なら誰もがもち合わせることのできる身体的な機能としての聴覚のことで、②の「情動的な聴覚」は、身体的な機能をもち合わせた上で音楽作品の聴取によってさまざまな感情が沸き起こる聴覚のこと、③の「知的な聴覚」は①と②の能力を併せもった上でさらに、音に対する知識が作用する聴覚のこと、だそうです。(この説明はすごく端折っていますので少しわかりにくいかもしれませんが)
つまり、ウィレムス自身が 'entendre' を最も高次元な聴覚と位置付けていて、②の 'écouter' はなくては困るけれど、それだけでは不十分で、さらに 'entendre' も必要だよ、ということなのかな、と解釈するに至りました。
でも、言説の中の「並以下の〜」のところでは、'écouter' をすっ飛ばして 'entendre' だけの状態でも困るよ、ということも言っていますね。
いずれにしても、'entendre' と 'écouter' が使い分けられていることは事実で、なおかつ、それを日本語で漢字表記にすると最後に「あれれ?」となってしまいかねないため、平仮名表記にし、単語の違いは括弧書きで補うようにしました。
シューマンの『音楽と音楽家』
ところで、内的聴感の重要性を唱えているのはウィレムスだけではありません。
かの有名な音楽家シューマンも、『音楽と音楽家』の「音楽家の座右銘」の中で内的聴感を重視していたと考えられる言説をたくさん遺しています。
いくつか例を挙げてみますね。
譜をみただけで、音楽がわかるようにならなければいけない。
(前略)指は頭の望むものをやればいいので、それが反対になってはいけない。
自分の手がけている曲は、ただ指でひけるばかりでなく、ピアノがなくても口でいえるようでなければいけない。想像力を多いに強化して、曲の旋律ばかりでなく、それについている和声も、しっかり覚えこめるようにならなければいけない。
いかがでしょうか?
こちらは、吉田秀和先生の翻訳で岩波文庫から出ており、日本語ですし大変読みやすいので、もしご興味のある方はぜひお読みになってみてください。