ウィレムスとはどこの国の人なのか、時々質問を受けます。
確かに、この名前からは推測しにくいかもしれませんね。
ウィレムスは、1890年10月13日にベルギーで生まれ、スイスのジュネーヴを中心に世界各国で活躍しました。
日常会話(レッスン)の中で使用していた言語は、フランス語です。
もちろん、私はウィレムスとお話ししたことはありませんが、かつてウィレムスがレッスンしている映像を見たとき、話していた言語はフランス語でした。(今は削除されています・・・残念!)
ウィレムス自身による著書も、全てフランス語で書かれています。
そんなウィレムス氏、音楽家としてはなかなかに特異な経歴をもっています。
今日はウィレムスの生涯について、いま私にわかっている範囲で書いてみたいと思います。
「独学」で音楽を学んだ幼少期〜青年期
エドガー・ウィレムス(Edgar Willems, 1890-1978)は、ベルギーのフランデレン地域にあるリンブルフ州ラナケンという村に8人兄弟の次男として誕生しました。
ウィレムスの父親は小学校教諭で校長も務め、村のカリスマ的存在でした。
父親を尊敬していたウィレムスは、まず、小学校教諭の養成学校に入学します。
そしてその後、絵画に対する関心からブリュッセル美術学校に入学します。
それでは音楽に対する素養や関心がなかったのかといえば、むしろ逆であり、彼の7番目の弟モーリス・ウィレムス(Maurice Willems, 1899-1980)は、「兄は、遊びの中で木材の一部を用いて「楽器」を作り、それらを用いて独学でソルフェージュや楽器の演奏に関する諸要素を学んだ」と語っています。
実際にウィレムスはたくさんの教具を開発していくつかは特許も取得しており、それらは現在の実践においても多用されています。
弟モーリスによるこのエピソードは、ウィレムスが幼少期の頃から自らの手で「もの」を創ることに対して関心が深かったことを物語っているように思われます。
美術学校卒業後、一度は小学校教諭になるものの、この頃からウィレムスはますます「芸術」に傾倒するようになっていきました。
そして・・・
放浪生活と、自給自足の共同生活
第一次世界大戦が起こると、ブリュッセルの街はワーグナーの音楽に占拠されます。
このことが、ウィレムスにとっての重大な転機となりました。
この時期のウィレムスは捕虜となり、その時に、彼の音楽教育思想の根底に流れる「人間の生」と「音楽」との緊密な関係性を発見します。
また、自らの内面に沸き起こる気持ちの高揚を唯一の原動力に、独学で和声と対位法を学びはじめ、即興演奏と作曲をはじめました。
1918年に戦争が終わると、ウィレムスは「独立した芸術家」として現実に存在する諸要素と精神的な諸要素とを結びつけることに関する「理想」を模索するため、村や友人たちと離れて放浪生活を送りはじめます。
この時期のウィレムスは、あらゆる制約から逃れ、質素で自由な生活を維持することに成功していました。
同時に、彼は自らに新たな展望を開く目的で、数名の唯心論者たちとの交流を求めていました。
1920年以後になると、ウィレムスがあらゆる芸術における「音楽」の優位性について周囲に力説していたことも知られています。
そして、この頃、ウィレムスはブリュッセルからフランスへと移り、詩人・ダンサー・哲学者といった複数の肩書きをもつ、レイモンド・ダンカン(Raymond Duncan, 1874-1966)と出会います。
レイモンド・ダンカンもまた、日本ではあまり知られていない人物なのですが、今日モダン・ダンスの先駆者として知られるイサドラ・ダンカン(Isadora Duncan, 1877-1927)の実兄であり、彼女のダンスにも多大な影響を与えています。
ダンカンは、古代ギリシャに理想を求めて人間の生と芸術との一体化を試みる、まさにウィレムスが求めていたような思想の持ち主でした。
ダンカンは弟子たちとの共同生活を送っていたので、ウィレムスもすぐにそこへ弟子入りします。
ここでのウィレムスは、家具もない部屋で、手織りの衣類を身に纏い、自給自足の共同生活を営むようになっていました。
その後、ヴェイユール精神探究センターでジュネーヴ音楽院の教授だったリディー・マラン(Lydie Malan, 1887-1947)に出会います。
ウィレムスはマランの人間性に魅せられ、また、彼女からの招きも受けて、1925年、自らの拠点をジュネーヴへと移すことになりました。
ウィレムスが、それまで傾倒していたダンカンとの共同生活を抜けてジュネーヴへの移住を決めた詳細な経緯については明らかになっていませんが、そもそもあらゆる芸術の中で「音楽」に優位性を感じ、そこに「天職」を求めていた放浪期間の思考にその一因があるのではないかと考えています。
35歳にしてジュネーヴ音楽院に入学
ジュネーヴに移住したウィレムスは、35歳にしてついに、ジュネーヴ音楽院に入学し、生まれて初めて音楽の専門教育を受ける機会を得ることになりました。
この時期にウィレムスは、日本ではリトミックの創始者として知られ、後に多くの影響を受けることになる、エミール・ジャック=ダルクローズ(Emile Jacques-Dalcroze, 1865-1950)にリトミックを習っています。
ウィレムスは実り多き学びの時間を過ごし、38歳になる1928年には早くも同音楽院で教鞭を執りはじめ、最初の年に「音楽の哲学」、翌年には「大人のためのソルフェージュ」の授業を担当するようになりました。
その中で、「人間の生」と「音楽」との緊密な関係に基づく思想と実践の考察をさらに深めていき、これらをまとめた著書と、世界各地で多数の講演を行うことによって、音楽教育家としての声価を高めていきました。
また、1956年には5〜7歳の子どもたちを対象とする「音楽入門」の授業を開始し、同時に彼の教育法を実践できる指導者の育成のため「音楽入門のための教育法」の授業も考案しました。
このように、ウィレムスはジュネーヴ音楽院を拠点に活動の場を拡大していき、ここでの教授職は1971年まで継続しました。
晩年の関心は音楽療法に・・・
音楽院での教員生活も終盤に差し掛かった頃、ウィレムスの大きな関心は音楽療法にありました。
1963年にアルゼンチンのラ・プラタ大学とブエノスアイレス音楽学校で音楽療法の講演を行なっています。
1966年にはウィレムスの弟子が音楽療法団体を設立し、1970年にはウィレムスが『音楽療法の入門書(Introduction à la musicothérapie)』も出版しています。
ウィレムスは、この分野の研究をより深めていくことを強く望んでいました。
しかしその後、入院生活が二年間続くこととなり、ついにその希望は叶うことなく、1978年、スイスの病院で生涯を終えています。
まとめ
これまで見てきたように、ウィレムスは、独学で音楽を習得したり他の芸術にも接触したり、放浪したり共同生活を送ったりといったあらゆる経験を通じて人生について熟考し、音楽教育家に至りました。
その時々で強い想いに導かれるようにダンカンやマランなどといった重要人物と出会い、タイミングを逃さず方向転換してきたことがわかります。
ダンカンやマラン、ジャック=ダルクローズなど、ウィレムスの音楽教育を形成していく上で重要な影響を与えた存在についてはまた機会を改めて書いてみたいと思います。